乙訓寺の歴史
乙訓寺の歴史
乙訓地方最古の寺
乙訓(おとくに)
地名の諸説のうち、葛野(かどの)郡から分離して新しく郡を作るとき、葛野を「兄国」とし、新しい郡を「弟国」(乙訓)としたと見るのが妥当。『日本書紀』によると、第26代継体天皇は河内で即位され、その12年(518年)3月、都を弟国に移された。乙訓寺は当時の宮跡として有力視されている。
乙訓寺の創建
日本に仏教が伝来したのは約1450年前。乙訓寺は太秦の広隆寺(603年創建)とほぼ同じく約1380年前の創建と見られ、寺伝では推古天皇勅願、聖徳太子創建となっている。これを裏付けるように、発掘調査の結果も、設計には法隆寺と同じ高麗尺が使われているという。
長岡京
延暦3年(784年)、都は奈良から長岡京に移った。わずか10年で京都に都は移ることになるが、唐都・長安(西安)を模し、堂々たる都城づくりが進められ、乙訓寺は都の鎮めとして重要視された。
早良親王事件
早良親王は桓武天皇の実弟で、皇太子であったが、長岡京遷都の翌延暦4年(785年)9月23日夜、建都の長官・藤原種継が暗殺された。
暗殺団と見られた一味と交流のあった早良親王は乙訓寺に監禁された。親王は身の潔白を示すため断食されたが、10余日後、流罪処分となり淡路島に護送途中、淀川べりで絶命、遺骸はそのまま送られ、淡路に葬られた。
その後、天皇の母、皇后の死、皇太子の重病が続き、悪疫の流行、天変地異が発生した。朝廷は事件15年後に早良親王を復権、崇道天皇と追号し、陵墓を奈良に移すなど措置を講じた。
今、全国至るところにある「御陵(ごりょう)神社」」「春秋の彼岸行事」(大同元年=806年=始修)も早良親王の怨霊鎮めが元になっている。また弘法大師の乙訓寺別当就任は「宮廷がたたりを恐れ、弘法大師の祈祷の効験に期待した」という説もある。
法皇寺
平安時代の宇多天皇は寛平9年(897)の譲位後、法体ととなられ、乙訓寺を行宮(あんぐう=仮宮)とされ、堂塔を整備された。
このため、法皇寺と号した。
室町時代
室町時代、衰えたりといえども十二坊あった。
しかし、内紛があり、足利義満は僧徒を追放し、南禅寺の伯英禅師に与え、一時、禅宗となった。その後、織田信長の兵火で衰微した。
将軍綱吉の援助で隆光が中興
長谷寺で修学後、江戸に出て、将軍綱吉の信任厚く、将軍の祈祷寺・江戸護持院住職となった隆光は、乙訓寺を請い受け自ら住職となった。
綱吉は寺領百石を寄進し、徳川家の祈祷寺とし、諸大名・公卿の信仰も集まった。
隆光は乙訓寺中興第一世として内外の尊敬のもとに、寺を再び真言宗に改め、堂宇の再建、乙訓寺法度(はっと=きまり)の制定などに復興を尽くした。
当時の寺域は八千二百余坪あったという。
現状
明治の廃物棄釈、第二次世界大戦後の農地改革など、苦難の経過をたどったが、「今里の弘法さん」と親しまれた伝統と牡丹の名所として知られている。