乙訓寺と弘法大師
弘法大師との深い関わり
歴史に残る二つの出来事
今から約1200年前、この寺で日本歴史に残る二つの大きな出来事があった。一つは日本密教の原点をつくられた弘法大師空海と伝教大師最澄がこの寺で最初の出会いをされ、日本の仏教が大きな発展を遂げる要因をつくったことである。
もう一つは建都間もない長岡宮造営長官の暗殺事件に関連した早良親王がこの寺に幽閉され、淡路に護送途中憤死されたことに起因する社会不安の発生である。
この事件は「怨霊のたたり説」が流布され、都を恐怖のどん底に陥れた。
弘法大師の勅任
弘法大師は弘仁二年(811年)11月9日、乙訓寺の別当(統括管理の僧官)に嵯峨天皇から任命され、この寺に在住された。
大師在任中の弘仁3年10月27日、弘法大師と同時に入唐、大師よりかなり早くに帰国していた最澄は空海をこの寺に訪れ、真言の法を教えてほしいと頼んだ。大師は親切丁寧にその法を伝授した。
在唐期間の短かった最澄はその後も再山空海との交流を深め、二人はそれぞれ日本真言宗(弘法大師)、日本天台宗(伝教大師)を確立、それまでの日本仏教の流れに大きな変革を与えた。
乙訓寺の弘法大師
弘法大師が中国から持ち帰られた仏典は、最澄も驚くほど、これまで日本にないものばかりであった。嵯峨天皇は大師の新しい法に期待され、乙訓寺を鎮護国家の道場として整備された。
大師はこの寺で仏典を研究される傍らみかんの木を栽培されたり、狸の毛で筆を作ったりされた。みかんは当時、西域渡りの珍果であった。大師は「沙門空海言さく。乙訓寺に数株の柑橘の樹あり。例により摘み取り、来らしむ。・・・」としたため、「・・・よじ摘んで持てわが天子に献ず」の詩を添えて、嵯峨天皇に献上された(性霊集)。
この史実に基づき、今、客殿前にはみかんの大樹がある。また「狸毛筆奉献帳(伝空海)」も醍醐寺に現存している。
本尊・合体大師像
秘仏で、お姿を拝することはできないが、この寺で永年、お参りの人々に授けられている厄除け札のお姿だと信じられている。古文書によると、空海が八幡大神(大菩薩)の姿を彫っていると、翁姿の八幡大神(大菩薩)が現れ、「力を貸そう。協力して一体の像を造ろう」とお告げになり、八幡大神は大師をモデルに肩から下、大師は八幡大神をモデルに首から上をそれぞれ別々にお彫りになった。
出来上がったものを組み合わせると、寸分の狂いもなく、上下二つの像は合体したという。この像はしび制作縁起から「互為の御影」と語り伝えられ、八幡社は今の境内の一角にある。学者らの話によると「恐らく僧形八幡像だろう。奈良時代末期より盛んになった本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想=神仏同体説=に基づくもので国宝に東寺、薬師寺、東大寺に同じような物があり、調査すれば国宝級の物だろう」という。
今里の弘法さん
弘法大師信仰は全国どこでも根強く、その偉大な御徳にすがろうと1200年の間に庶民信仰に発展した。京都・東寺を埋める毎月21日のご縁日と年初の初弘法と12月の終い弘法。それに似たような風景が、この地区では「今里の弘法さん」であった。
今も、厄除け札を求めに来られる方が多く、特に春の彼岸は中日が大師の正御影供(しょうみえく)の3月21日と重なることもあって賑わう。